昭和57年8月10日月例祭教話
                                              梶原勝行
いよいよこの16日には夏の大祈願祭が行われます。元々この夏の祈願祭は昔から九州のお祭りと言われました。小倉の初代桂松平先生が御造営のために全身全霊を捧げられました。それには、どうでも神様、九州中の氏子に大繁盛の大みかげを頂かせて下さい。飛ぶ鳥も翼なしには飛べません。というような祈願文を作られて、御本部にご依頼をなさってお祭りをなさったのがこの夏の祈願祭の始まりであり、起こりであると言われております。
いわゆる大祈願祭なんです。お互い願いを持たないものはございません。ですからその願いが本当に神様にも喜んで頂く、金光大神にも喜んで頂く、銘々もまた喜べれる大祈願でなからなければならないと思います。ただ自分のことだけ。例えばね。合楽教会の五つの願いの中にありますように、第一にもう繰り返し繰り返しお願いしなければならないことは、なんと言うても家庭に不和の無きが元とおっしゃるから、家庭円満、家庭に不和の無きが元であるということ。次には、体の丈夫を願えと仰る。何をするにも体が元とおおせられますから体の丈夫を本気で願わなければなりません。同時に子孫繁盛家繁盛を願わないものはありますまいけれども、本気で願わなければならない。願ったからと言うて、ならおかげになると言うのではなくて、その願いの根本のところ、神様がどうでも聞きなさらなきゃおられない願いでなければならない。いわゆる神願成就です。氏子の健康も、氏子の家庭円満も子孫繁盛家繁盛も確かに天地金乃神様の願いなんですけれども、その願いがいよいよ成就いたしますようにと言う私共手前のところではです。果たして健康のおかげを受けることが家庭円満のおかげを受けることが、または子孫繁盛家繁盛のおかげを頂くことが神の機感にかなう、願いに答えうる内容であるかどうかと言うことを、確かめてこの夏の大祈願祭に望みたいと思う。
今日、午後、ブラジルから手紙が参りました。ビリグイ教会の末永先生ところから。市長さんからのメッセージもいつも、それから二百数十名に上る御信者のお初穂と一緒に同封して送ってまいりました。
そしてその、手紙の中に書いてございました。いよいよ大祈願祭が近づきました。小倉の桂先生は飛ぶ鳥も翼なしには飛べんとおおせられておりますが、合楽ではご理念によることになれば、飛ぶ鳥も飛べるようになるおかげを確信して夏の御大祭を遠く南米の地から拝ませてもらうと言っている。ね。
合楽で言われる合楽理念と言うのは、体の丈夫を願う、子孫繁盛家繁盛を願う、健康のおかげを願う、家庭円満を願う。それを願うけれどもどういう信心をもってそれを、なぜ願わねばならないかと言うことが説いてある。なぜ体の丈夫を願わねばならない、なぜ家繁盛子孫繁盛を願わねばならないか。なぜ家庭円満のおかげを願わねばならないか。そのなぜというところは神様の心をもって説かれてあるのです。末永先生が言うように御理念と言う翼を持って飛べれるところの信心が私は合楽の信心だと思うですね。
いわゆる御理念の実験実証です。御理念を持ってすればそれこそ、飛ぶ鳥が自由に大空を飛び回ることが出来るようにそれこそ、自由無碍なおかげが頂ける信心が説かれてあるのです。しかも、子供でもなそうと思えばなせれる修行。それをあらゆる角度から説いてある。本気でそのことを行じようということになるとおかげが受けられるけれども、だんだん合楽の方たちは、知ってはおる、覚えちゃおるけれども、果たしてそれが日常生活の中におかげを頂いて、今朝からのご理解じゃないけれども、『上から下へ水を流すのは見やすいが下から上へ水を流すのは難しい。匹夫の凡人から開くのじゃから、ものが難かしうて暇がいるがその辛抱していくうちには説くが受けられる』と言うあのご理解に基づいてのご理解でしたが、たしかに、おかげを受けると言うことは見やすいけれども新人が自分の地に肉になるということはそう一辺に出来ることじゃない。信心が血に肉になるということが下から上に水を引くように難しいけれども難しければ難しいほど楽しみが湧いて来るように合楽理念では説いてありますね。
信心しておっても問題が多すぎる。難儀が多すぎる。その問題を解決のおかげを頂く。その難儀をおかげを頂く。また次には問題がでけておる。また次には問題がある。難儀がある。なるほどお釈迦様がむご言うてある。「この世は苦の世苦の世界だ」になってしまう。ところが教祖金光大神様は「一生が修行じゃ」と仰せられた。修行と言うものは始めの間はそれこそ三代金光様ではないけれども「泣く泣く辛抱しいしいに座っておりましたら」と仰せられるように辛抱もいるけれどもその辛抱の域を超えると辛抱の徳が受けられる。そこには思うこともなくなり欲しいものもなくなりただ有難うて有難うてという心が生まれてくる。いうならばその問題そのものが有難うなる手立てでありお徳を頂く手立てである。
今日はここに大きな水槽がお供えになっとります。私は今日初めて見て、とてもそうにゃずいぶん金のかかったものだと思いますね。
あれはここで川のものをお供えするんですよね。いつも。小さいガラスの器で鯉が二匹ぐらい。これだったら10匹鯉を入れたっちゃよかろう。鮎やら鯉やらが中でこう泳いでおる。それをそのままご神前にお供えできるように、こんどの夏の大祭にはそれを使うようになるでしょうが、鯉というのは川のものをここではお徳とここではお知らせくださる。そのお徳の受け物がああいう大きなものになったというてもいいのじゃないでしょうか。受け物を作らなきゃやっぱだめ。お徳の受け物が出来る。
昨日、金光新聞が送って参りました中に須田隆太郎と言う先生がたいへん有名な先生がおられます。大学教授であんなさるかな。大学の先生じゃろう。方が書いておられるのが出ておりましたが。なんじゃったか・・・。(力の論理と神の論理と広前から声あり)ああ、「力の論理と神の論理」と言うことが説いてある。短い分ですけれどもなかなか勉強しておられますから立派な文章のことでした。改めて私共は力の論理と神の論理を分からして頂く気がいたしますが、合楽の場合は何の論理と言うたらいいだろうかねと言うて、昨日も今日もでしたが、研修のときに話したことでございました。
力の論理と言うことをあちらこちらで今年は戦争がありましたね。また、しております。これは勝っても負けてもこんな馬鹿らしいことはない、こんな悲しいことはない。これは力の論理の結論がそういう風に語っております。
神の論理と言うのは教祖金光大神が仰せられる人が立つことさえ出来ればと子いう。お取次ぎを頂いて、人が助かることさえ出来れば、金光教が始まって100年お取次ぎを頂いてたくさんの人が助かった。たくさんの人が助かったけれども助かった人が消えては、また消えていくというこの助かりでは神の論理にもとることになる。神様の願いにもとることになる。只、お取次ぎを頂いて病気がよくなりました災難がよけられましたと言うおかげではだんだん100年の間に一時は大変なごひれいが輝いた時代があった。教団に。それが今ではだんだん下火になっていっておると言う事実がある。だから、神の論理と言われるその神の論理の、いうならば、本当の意味においての神の論理、言うなら真と言うことになりましょうか。そこを、合楽ではお取次ぎを頂いて助かるということの内容が天地との交流が出来るような助かりでなからなければならないと説いております。金光大神のお取次ぎを頂いて天地との交流が出来るような信心。だからこれは限りなく生みなされてくる信心ということになります。御理念による助かりと言うのは、限りないおかげにつながっていくことになります。それは、天地との調和。そしてもうひとつ向こうにあるところの天地との交流。いうならばあいよかけよ。神も助かり氏子も助かる。神も喜び氏子も喜びと言うその、氏子と神様とが喜びあえれる世界なんです。
私は毎朝、一時間何十分間のご祈念をさせて頂くのですけれども、その御祈念の半ばに必ず二回・三回は声がでらんかと思うくらいに嗚咽がでてきます。言うなら感涙にむせびます。それはどういう時かというと神様と私の心が交流する時。教祖金光大神の御伝記の中にもございます。金光大神がどうしてこういうことが出来たであろうかとお届け帳を繰って感涙に咽んでおられると、神様もまた、歌人なら歌にでも詠もうかと、ね。金光大神がうれしいのではない。神がうれしいと言う言葉を悲しいという表現をしておられますね。悲しいまでの喜び。神様と金光大神、一緒になって感涙に咽んでおられる。そういう世界が金光大神の世界だと思うんです。神様と一緒に喜びあえれる世界と言うのはこれはもう大変なことであろうと思うておりました。けれどもこれは金光大神だけのものではない金光大神の教えを頂く者がみんなそういう心の状態、おかげの状態になれれる手立てを教祖金光大神は教えて下さってあるが、それがあまりにもやはり説かれていなかった、難しかった。天地日月の心になること肝要と仰ったけれども、それなら、天の心、地の心とはと解明するものがなかった。また、その天の心地の心日月の心と天地と、天地人一如の世界に入っていける手立てが説かれていなかった。皆さん合楽で言われる御理念はそういう世界に入っていける手立てなんです。だから、どうしても実験しなければいけません。実証しなければいけません。
昨日も、踊りの師匠をしておられるご夫婦が、二人とも妙な病気で入院しておられた。昨日退院のお礼に二人でお礼お届けに見えました。奥さんは熱心に参って来る。主人は参ってきたことはないけれども、今度は本当に神様のおかげといわにゃおれんと自分でも感じられてお礼参拝になったわけです。それで私が信心の話をしばらくさせて頂きました。けれども、合楽の話はやっぱ難しいですね。あんまり垢抜けしすぎっとる。本なことじゃあるじゃろうかという感じですね。だから、本当に合楽の信心をふんまえて、それを基にしての日日の生活でないと、確かに実感として湧いてこない。それで私が、奥さんが踊りの稽古をされる、はじめお姑さんですから、好きで稽古されるようになって、そして、なんなん流の名取にまでなられて、人に教えてよいような資格を受けられた。もう踊りが好きで好きでたまらん。初めの間は手の動かし方、足の動かし方だけを覚えておったが、だんだんひとつのリズムに乗って踊っていくうちに所作が出来てくる。体のこなしまでが変わってくる。信心もそうです。さぁ手を動かせ足を動かせ。大変のようだけれども、それをひとつのリズムを聞くようになり、リズムに乗っての信心生活が出来るようになるとそれこそ身のこなし心のこなしができるようになる。
昨日は、福岡の77になるおばあさんが今度アメリカ旅行をして無事に帰ってきたからと言うて御礼のお届けに参ってきた。娘さんと二人で参ってきた。それでどうでも先生アメリカやらブラジルに一辺おいでなさい。あちらに布教されるような話も聞きましたから視察方々アメリカやらブラジルにおいでなさいませんかと私に言われるんです。今頃はあなた歩くこともなぁんにも要らん。飛行機が連れて行ってくれるから。それはそうですばってん、このごろ私は目は薄なって耳は聞こえんごとなって足はぼとぼとしとるからというたら、私は今度のアメリカ旅行は信念で行きましたち、親先生あなたも信念でおいでなさいと。ちょうど研修の時でしたから、私にそういって説教してくださいました。みんなで大笑いしたことでしたけれども。ね。信心の難しさと言うなら上から下へ水を流すのはみやすいが下から上へ水を流すのは難しいというのは、この信じて疑わない信念ができていくと言うことが難しいのです。だからその信念がだんだん確立していくことの楽しみであり喜びであり、それこそ踊りで言うなら名取にでもなろうかと言うくらいに稽古ができてまいりますと、もう手足を動かすだけではない身のこなしまでが変わってくるように、それこそ踊ることが楽しゅうして楽しゅうしてと言うことになってくるのと同じなんです信心の稽古は。ただお取次を頂いてお願いをした、ただ信心は拝むことだ、信心は御用なりと言われますから一生懸命御用する。確かにおかげを受けます。一生懸命お参りをする、ご祈念をする。これは過去百年のいわば金光教の信心であった。このあたりで金光教の信心も過去の信心をイメージアップしなければいけない。そして金光大神が本当に教えておられる天地金乃神様が「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と仰る限りないおかげにつながっていけれるおかげを頂かなければならない。それにはね。いわば天地との交流を願わせてもらえれる信心にならないかぎり天地との交流と言うことは、ここ二・三日そのことが説き続けられております。今朝は、そういう難しいことではなかったですけれども。日々合楽でとかれておる見やすい、初心の人でも行じようと思えば行じられる信心が今朝から解かれました訳ですが、ならその見やすい信心が果たして皆さんの信心の血肉になっておるか。手足を動かすことだけは覚えておるけれどもそれが全身全霊で受け止められる、いわば踊りをしていく内に品までが変わってくる、所作までが変わってくるような血肉になっていっておるかどうか確かめて言って下さいといったようなご理解でしたね。今朝のご理解は。
いよいよ、御理念によるおかげを頂いて、合楽でね、成り行きを尊ぶ大切にすると言うことは、これはもう、本当に薫るようなおかげの頂けれることなんです。
入り口に合楽、今度の15年の記念祭の看板が出ております。4・5日前あれがでけた時に、若先生がちょうど4時半のご祈念が終わってから、看板がで毛手降りますから見てください。もう久しぶりに表へ出ました。そしたら、もう見事に、でけてました。本当に通りからも目立つし品のよい。神さまにそこでお礼もうさせていただいたら、薫るようなおかげと頂きました。看板が香るようにでけたから、今度の15年の秋のご大祭には薫るようなおかげに繋がっていかなければいけない。その前日、マルショウがここでちょうど夏季信行の終わった日に信徒会館で、演奏をやりました。私は本当にいつものことながらびっくりしました。そのためにはやっぱり10日間から合宿してやっておりましたが本当に見事に、今度ご本部のマルショウ大会でも合楽が一番だったと、まあ、お褒めをいただいたということでございますが、演奏している時に神さまにお礼申させて頂きよりましたら、「これが薫るようなおかげぞ」と頂きました。だあれもマルショウを作りなさい、マルショウに入りなさいとだあれも言うたことはない。マルショウをがんばりなさいと言うたこともない。それでも、それこそひとりでに物ができるようにあのようなマルショウが、また、バンドがでけて、あのすばらしい演奏を聞かせてもらった。それは、私、中心である私が自然を重んずる心で日日おかげを受けておるからだと思います。薫ると言う字は草冠に重んずると書いてある。そして点、点、点。心ですねこれは。自然を重んずる心これに徹していくところに、そこには薫るようなおかげが約束される。それが約束されるだけではない。それが天地との交流、天地との?がりにまでなっていくのである。神様の働きそのものを合掌して受けるような心なんです。これは私が確信をもって皆さんにお話が出来、また、お勧めすることが出来ることでございます。
昨日、竹内先生が金光青年の中に阿倍野の伊藤先生のことのお話になっておったことが断片的に出ております、読んでくださいというて、読んでもらった。先だって、87歳と言う人もありゃ、82歳と言う人もありゃ。まちまちなんですけれども80何歳でお国替えになられた訳ですけれども、先生のお話の断片的な、どのお話を頂いてもです、まぁ、難儀な氏子が泣きの涙で参ってくる。すると伊藤先生が答えていうておられることを私なら神さまに心からお礼申し上げるがのといわっしゃるげな。難儀な氏子が泣きの涙で参ってくる、すると伊藤先生がそれに答えていうておられることは「私ならそれに心からお礼申し上げるがな」といわっしゃるげな。それに、話しておられるテープを写して載っているんです。ね。ご自身がいわば、一切を喜びに喜んで受けると言う信心を数十年間続けてこられてあのごヒレイを受けられた。もう確信を持ってそのことが言われる。それこそ、こげな私のような不幸せなものがあるじゃろうかというてお参りしてきている氏子に対して、私ならそのことを、それこそ涙が出るほど有難いとお礼申し上げるち。ね、今日、うちの先生方に申しましたそれで人が助かると言うことは自分が確信しておられる、それを信念しておられる。それが、その信念が確かなものになってきておられる。だからそれで人がどんどん助かった。それをまた受け売りでさあ喜べ喜べというただけでは、自分が喜びよらんのに喜べというても助からん。不思議なもんじゃ。だからここでも私が成り行きを尊ぶ、大切にする。いうならば薫るというような内容を自分の信心の生き方に本当にさせていただいたら本当に薫るようなおかげになるです。ところがそれを中絶したり、やめたりするから本当の産み出されるところのおかげにならんのです。だから、それを、そのことを稽古しようという気になったらです、初めの間はぎこちないけれども、やっと手が動いているだけのようだけれども、それを全身全霊で踊るようになる、体のこなしまでが変わってくるようなところまでおかげを頂きますとそれこそ高いところから、それこそ下へ水を流すようにスムーズなおかげになってくるんです。そういうおかげの頂けれる信心を私は願わなければいけないと思う。いよいよ合楽理念の行者ともならんと言う、言うならば本気での一心発起。そういう信心を土台として体の丈夫もよかろう、家庭の円満もよかろう。子孫繁盛家繁盛もよかろうね。そういう内容を持っての、言うならこの16日の大祈願祭はね、お互いお祭りにそういう心で望みたい、頂きたいと思います。桂先生は仰せられた。おかげを下さい。それこそ飛ぶ鳥も翼なしには舞うことはできません。私共どんなに御用を頂きたいというても、商売が繁盛しなければお供え一つ出来ませんということにもなりますでしょうね。諸事繁盛を願われた、だからその諸事繁盛を願ってもよい、けれども合楽理念のよるところの願いになってまいりましたら、合楽理念そのものが飛ぶ鳥に翼を与えるようなものだと思います。そういう、いうなら高度なねがい。天地金乃神様の願いを私の願いとするような願い。いよいよ神願成就の為の大祈願祭でありたいという風に思います。少し手を動かし足を動かすことを覚えて少しリズムが聞こえてくるようななると踊ることが楽しゅうなるような稽古をして頂きたい。
昨日、吉井の熊谷さんが本当にこんなに有難くて、これは本なもんじゃあるじゃろうかと思うごと。バスに乗らせて頂いたら、一杯のっとられるが私のようなこんな喜び、こんなにぎやかな心を持っておるものがこの中に一人でもおるじゃろうかと思ったら、いよいよ有難うなったと言うておられる。それこそ日々ご修行頂くことも、もう80何歳であんなさいますでしょう。教えを頂いて実験することが、それが実証で現れてくる。その実証そのものが最近では、この実証こそあの世にも持っていけるんだというておられる。ね。この世はあの世の為にあるんだ、お互い実験実証させて頂いて生まれてくるおかげ。お願いをしてお取次を頂いて、おかげを頂きましたというおかげではなくて、自分の心に受けものが出来て教えを実験させていただいて生まれてくる実証そのものがお徳である。これがあの世にももっていけるのである。そういう私は信心を、私は自分の楽しみとし、喜びとしていけるようなところまで信心を高めて生きたい。合楽理念をマスターすることは知っております覚えております。今朝方のようにみやすい、初心の方にお話したようなお話を二・三の例を持ってお話したが、果たしてその初心の方にお話しておるような事柄でも私共がでけていないのではなかろうか。もう一辺再検討しておかげを頂かねばならんと言うことでした。
まぁ、あと6日目にはご大祭ですから、私共の心のうちをそのような風に、向きが違うなら向きを変えていよいよ16日の大祈願祭に望みたいと思います。どうぞ。